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2013年3月25日月曜日

3/21 都庁チラシ撒きの後、東京委定例会を傍聴の報告

■3月21日(木)、<河原井さん根津さんらの『君が代』解雇をさせない会>の早朝都庁前チラシまきの後、都教委定例会を5人で傍聴した。

◆都教委定例会の様子
(1)都教育庁の「理事」を、4月1日から『教育監』にするということが決められた。                理由は、教育行政が「いじめ」「体罰」「学力向上」「高校改革」「職業教育」「小中高一貫教育設置」「言語能力向上」などの喫緊の課題に対応するため、だという。
そして「理事」は、 (教育の専門職員の立場から教育内容について教育長を補佐)というものだったのを、
『教育監』は、 (教育の専門職員と行政系職員の力を統合し、教育課題の解決 に向け、教育長を補佐)
となった。つまり、行政権力を兼ねるようになったわけである。そうしてこの役職は、「教育長の直下」に置かれるという。

「教育監」という名前からして、いかにも権力的な名前であり、戦前の「視学官」を想起させる。それは、
(文部省および地方に置かれた教育行政官で、 学事の視察や教員の監督を行った)、役職だった。
そうして、この視学制度が初等教育を完全に統制下に置いたのであった。 また、「教育総監」といえば、戦前には陸軍の教育を司る役職で、陸軍大臣・参謀総長と並んで陸軍三長官と呼ばれた。

従って、これは明らかに現在進められつつある国家主義教育への新たなステップであると言える。      しかし、これに対する論議はほとんど深められず、事務方のもっともらしい説明を受け、「いいだろう」で決められた。

(2)都独自の「道徳教育教材集」(小学校版:1・2年生版、3・4年生版、5・6年生版)  の作成・配布について報告された。                                                       これらを読んでの第一の感想は、「儒教思想」に貫かれているということだった。いずれの版にも、「大学」、「論語」、「易経」、「中庸」などからの言葉が紹介されている。

特に1・2年生版の<第一章 先人のことばに 学ぶ>の最初に出てくるのは、「大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤むべし。小積もりて大となればなり。」(二宮尊徳『二宮翁夜話』)であり、二宮金次郎像の写真が載せてある。

さらに<第二章 先人の生き方に 学ぶ>の最初に出てくるのも、『直して つかう ――二宮 尊徳の ものがたり――』であり、ここにも「二宮金次郎の ぞう」の写真が二枚載せられている。             二宮金次郎と言えば、戦前国定教科書に載せられ、像も作られた。また、二宮金次郎は、戦前の「修身科」国定教科書では明治天皇についで多く載せられた人物である。まさに戦前回帰である。

また、5・6年生版の<第一章 先人のことばに学ぶ>の中程には、『仰げば とうとし』の歌詞が1~3番まで載せてある。校庭に咲く桜と教室の窓の写真をバックに。これも戦前回帰である。

ところで、儒教といえば長期間封建制度の思想であり、この思想が中国や日本の近代化を遅らせたのであった。中国では清朝が倒された辛亥革命(1911年)以来、儒教批判が活発になった。
日本ではそれ以前、明治維新(1868年)前後に儒教批判が強まった。かの福沢諭吉も儒教批判を展開したが、彼の『文明論の概略』(1875年)の中には、次のような指摘もある。

・「後の学者、孔孟の道に由(より)て政治の法を求むるなかれ。」
・「徳義の事は形を以て教ゆ可(べか)らず。」
・「徳は智に依(よ)り、智は徳に依り、無智の徳義は無徳に均しきなり。」

ちなみに福沢諭吉は「修身科」設置については批判した。

以上から、現在日本社会で進められつつある「道徳」教育は、日本の子どもたちの思想を封建社会の思想に戻すようなことであり、70年以上も前の(あるいは江戸時代の)思想に戻すことである。

行き着くところ、「無智の徳義は無徳に均しきなり」ということになろう。 日本は日々ダイナミックに変化する世界から取り残されていくだろう。