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2019年2月28日木曜日

都教委包囲ネットは都立高校の卒業式にビラを撒きます。

〇3月1日(土)~22日(金)の日程で都立高校の卒業式が行われます。
都教委包囲ネットは例年通り、卒業式の日に、卒業生に向けて、「日の丸・君が代」強制反対、処分反対、若い人たちが未来をきめる力です、という内容のビラを撒きます。今年で15回目になります。
 高校でビラを撒きたい方はご連絡ください。ビラをお送りします。
卒業式の日程は東京都教育委員会のホームページに載っています。

そのビラをアップします。 


2019年2月13日水曜日

2019.2.9総決起集会の報告(その二)

2019.2.9総決起集会の報告(その二)

■「闘いの現場から」7つの報告がありました。以下簡単に紹介します。



















①「日の丸・君が代」強制反対の闘い 高校の現場から(Kさん)
・毎日過密スケジュールで吐きそうだ。ほとんどの教員が同じだ。「定年まで働き続けられるのか?」と言う声を聞く。とても忙しい。どんどん忙しくなる。それに対して見当はずれの施策ばかり。
・一昨年から、出勤時だけでなく退勤時もカードを通すことになった。しかし、何の対策もない。80時間以上超勤になると「産業医と相談を」などと言うだけ。
校長は「わかっているよね」と言ってくる。つまり、帰る時にカードを通すのではなく、
帰る前に早めに通し、それから仕事をしろ、ということだ。
・「変形労働時間」はとんでもない。夏休みを短くすると言っている。働きだめなどできない。
・「スマートスクール」といって、「スタディサプリ」なるものでリクルートが入って来る。学力テストもリクルートがやる。教員はいらなくなる。怖いことだ。
・これらの出発点は「10・23通達」だ。第四次訴訟で毎月一回最高裁に要請行動をやっている。
・この3月に定年を迎える。1月24日来年度の再任用が決まった。
 ところが、その夜都教委より校長にメールが届き、「今年度は合格とする」が、任期の更新の際は「あなたは懲戒処分歴があることから、任期を更新しないことになります」という事が告げられた。ひどいことが起きている。やめても闘って行く。

②「日の丸・君が代」強制反対の闘い 裁判の現状(根津さん)
〇08年事件(地裁で敗訴)の控訴審判決が、3月14日(木)13:30 824号 である。
 これまでの判決の流れは、
 ・2012年最高裁判決で、戒告と容認、戒告を超える処分は違法。ただし、過去の処分  歴や不起立前後の態度等により、自分の3ヶ月停職処分は取り消さなかった。
 ・2016年最高裁決定では、07年事件の控訴審判決(勝訴)を認め、自分の6ヶ月停職  を違法とした。損害賠償も認めた。
 ・しかし、08年事件の6ヶ月停職については、東京地裁は、過去の処分歴やトレーナ  ー着用などをあげ、処分を取り消さなかった。
 ・09年事件の地裁判決も、加重処分ではないとして6ヶ月の停職処分を取り消さなか  った。
 自分については、裁判を受ける権利を認めないに等しい。判決はひどくなる一方だ。

③道徳の教科化に抗して(小学校教員Mさん)
 道徳が入りますます多忙になって来ている。
 道徳の評価を巡っては多くの学校は3学期に1回だが、自分の職場は二学期制なので、 前期で評価を出した。
 「道徳担当教員」がいるが、伝達講習で言われたことをまじめに学校でやる。「価値項 目をブレさせてはいけない」「教科書をちゃんと指導しよう」など。そして「どのよう な変容があったかを記述しよう」とまで言う。特定の価値観を押し付けてもいいという 事だ。授業展開や評価の工夫をしている教員に対する攻撃がある。応援して欲しい。

④教育統制と闘う千葉の高校の実践(再任用ハーフのNさん)
 沖縄修学旅行事前学習で自分が配布した「おきなわ通信3号」(1995年の米兵少女暴行 事件)を校長が回収命令を出した。理由は「内容が悲惨であり、親からクレームが来る かもしれない」とのこと。2学年の担任団は指示に従って回収した。
 校長にこれまで問題はなかったことを話すと「再配布は許可する」と表明した。
 しかし、若い教員が多い学年団は書き直しを要求してきた。
 自分は断った。「3号」は配布されないまま夏休みになった。
 「第4号」(甲子園の土事件を扱う)を学年・管理職の承諾の下、7月に発行した。9月 には「5号」(ひめゆり学徒隊を扱う)、
 「6号」(摩文仁を扱う)を発行した。学年も事前指導の重要性を理解、千羽鶴、沖縄 料理、三線の演奏など進むようになった。
 
 ところが、自分がある集会で「回収」問題を報告すると、「朝日」「東京」が関心をも ち、校長と県教委を取材した。これがきっかけで謙虚委は態度を硬化するようになった。
 10月1日県教委は各校長に、H27年3月4日の文科省の通知「学校における補助教材 の適正な取り扱いについて」を職員に周知徹底するように指導した。自分の職場でも臨 時職員会議が開かれ校長が説明した。
 その結果予定していた「7号」「8号」(両方とも楽年の了解と校長にも示していた)も、 県教委から「待った」がかかった。
 県教委のA主幹は校長に「8号」を持参させ、彼がダメだと思う所に朱で?印を付けた り、「出典・根拠を示せ」等の指示をした。これは「学習指導」の範囲がらはるかに逸 脱した「指導」であり、実質的な「検閲」であり、さらに「発禁」の指示も出ているか ら重大な憲法違反である。
 私の「おきなわ通信」は、ほぼ確定している見方・考え方について述べてある。
 権力が教育に土足で入って来る現状と平和教育潰しを、危機感をもって弾劾する。

⑤高校生の言論の自由を求める闘い(四部制定時制・新宿山吹高校卒業生のHさん)
 自分が在学中に創刊した校内新聞(YAMABUKI JOURNAL)が、学校側が嫌がるよう な内容であっても事実を伝えていくスタンスの新聞であったことから、生徒会顧問をは じめとする学校側からの検閲や妨害を受ける様になった。
 最初は、2016年の入試から内申比率が20:3から7:3に改訂されたことと、ボランテ ィアを必修化することを批判した社説が検閲された。最終的には生徒会会則の公開を求 める論説を掲載したところ、生徒会顧問が発行を差し止めた上に「指導により削除」の
 表記すら禁止したことから自主廃刊を決断した。
 その後、2017年に入り新しくI君を新編集長に任命、復刊の夢を託した。しかし、I君 が電子版YAMABUKI JOURNALを発行し、校内でコンドームが発見されたことなどを 報じると、生活指導主任の教員らに生活指導室に連行され、「覚悟はできているんだろ うな、ちゃんと」「法律なんかどうでもいい」等恫喝されながら記事の削除を要求され た。
 I君が拒否すると、最終的には校長指導で誓約書を強要するなどしてI君に精神的ショ ックを与え、不登校に追い込んだ。
 2017年12月、I君は自由と人権が守られる古き良き新宿山吹高を取り戻すため、「自治 委員会」を立ち上げた。しかし、学校側は「指導を受けなければ授業に参加させない」 等の弾圧を加えた。以下の( )は補足です。
 (2018年2月、弁護士に同行してもらうが、学校側は弁護士同席の話し合いを拒否)
 (2018年3月、都議に接触、支援要請する)
 (2018年4月、都議に陳情、都教委は「授業に参加させない不適切」と認める)
 その後、I君は授業に出ている。自治委員会は最近、学校側に五項目の要求を出した。
 「建設的な和平交渉。和平協定の締結」、「校内における言論・表現・結社の自由の保 障」「学校の民主的運営制度を確立すること」「入試における内申点と試験の比率を20 :3に戻すこと」「全日化政策の即時中止」
 しかし校長は受け取りを拒否した。I君は全面的に闘う姿勢を示し、最近再び都議に相 談した。

⑥「天皇代替わり」に対する取り組み(靖国天皇制問題情報センター・中川さん)
 30年前の代替わりは、葬儀と奉祝があったが、今回は奉祝一色になる。
 そこで、以下のことについて訴えたい。
 1、政府からだされる通知などへ反対の声を上げよう。
 2、新元号は使わないようにしよう。自治体へも働きかけよう。
 3.代替わり反対の様々な取り組みをやろう。
 4、「おわてんねっと」への団体賛同を。
  (終りにしよう天皇制!『代替わり』反対ネットワーク)
  また、リーフレット「終りにしよう天皇制!」の活用を。
 5、即位大嘗祭違憲訴訟の会への参加を。

⑦世田谷区新採教員解雇撤回裁判(Wさん)
 2017年4月に、音楽専科として採用された。臨時的任用教員経験年数は9年以上だっ た。しかし、指導教員と校長・副校長からパワハラされた。生徒のことも考えず、無理 難題を要求してきた。
 2018年3月校長の恣意的評価で免職処分となった。その年の9月に提訴した。
 第三回口頭弁論が3月18日(月)13:15~ 東京地裁527号。
 カンパもお願いしたい。
 問い合わせ先 免職処分取消裁判を支える会(通称 アンサンブリ)℡ 03-5276-1311
以上、いずれの発言も現在進行しつつある「国家主義」に反対する闘いの最前線での発言であったと思います。

■アンケートの「現場からの報告について」の欄には、以下のような声がありました。
(一部です)
〇いずれの報告も重大な意味を持つものであり、マスコミによる発表、それによって
 一般の人々の正常な反応に期待したい。
〇「道徳教育」についてと「高校生の言論の自由の闘い」について興味をもった。新宿山 吹高校における言論弾圧については、知っている高校でもあり、当該高校生を是非応援 したいと思った。
〇各々の立場で地道な闘いをしていることに頭が下がりました。私は特別支援学校ですが、
 若い先生方が授業など教員としての仕事が楽しくなく、「あと年年働けるかな?」など の声を聞くと、今の学校の在り方を変えていく必要を強く感じます。

■集会はその後、「卒業式ビラまき」の行動提起、「集会決議」の採択、
「団結ガンバロウ」で 終了しました。

集会にご協力して頂いたみなさんありがとうございました。
早速私たちは、卒業式ビラまきの準備に入ります。

2019年2月11日月曜日

2019.2.9 総決起集会(都教委包囲ネット主催)の報告 その一

2月9日(土)、小雪のちらつく中、「今こそ、教育の国家主義に対抗する」をテーマに、
「2・9総決起集会」(主催:都教委包囲首都圏ネット)が開かれ、90名が参加しました。




















講演:荻野富士夫さん(元小樽商科大学教授)の<戦前の教育統制から戦後の教育統制へ
 ~連続・継承と断絶~>について


講演では、多くの事例を紹介されながら、戦前から戦後へ続く教育統制や人々の認識の変遷について語ってくれました。
1. 最初に、この間の安倍政権による教育の反動化に触れつつ、それ以前の小泉内閣時の中山文科相の、「国家主義教育」につながる言葉を紹介してくれました。
ーー「先の大戦の敗北のショックが大きかったことと、戦後のマルキシズム、共産主義の影響で、日本の戦前は非常に悪かったという歴史観がはびこった。・・・戦後、国民をいじめるのが国家だといわんばかりの風潮もあった。
だが、皆国に守られているのですよね。自分のことだけでなく、国、人のために貢献できる人になることを目標にして生きて行くことが大事だ、と教えて行くべきではないかな。」(「朝日」2005・4・24)」
さらにそのあとの大河内一男氏や和田洋一氏の、当時の状況についての言葉を紹介してくれました。和田氏(灰色のユーモア―私の昭和史ノォト)は次のように述べていました。
ーー「(1930年代後半)私の実感としては、底知れぬ深い谷間へずるずると滑り落ちてゆく時代、途中でふみとどまろうとしても、足もとがくずれてゆく、はいあがるというようなことはとてもできない、一人一人がもがいても歎いても、結局はみんながずるずるとすべり落ちてゆく、そして事実地獄まですべり落ちていった、そういう時代、破局への一方的傾斜の時代、奈落の底への地すべりの時代だったという気がする。」
そして、北星大学・植村バッシングが、1930年代後半の思想統制が重なる、現在に近いものであると述べられました。

2. その後、レジュメを飛んで、
「三、日本人は、なぜあの侵略戦争に無謀にも突っ込んでいったのか」と言う部分に入り、当時の「戦意」について話をされました。
とくに太平洋戦争緒戦の頃は、民間からチョウチン行列や神社参拝なども行われ「99%以上の戦争支持・協力者」がいたという。
しかし、戦争が長引くにつれ、「戦意」は瓦解し始め、終戦の頃はかない低くなったことがグラフで示された。
また、1945年4月の「特高警察」の以下のような観測も紹介してくれました。
ーー「最近に於ける敵の比島及び硫黄島、沖縄等に対する侵寇並に本土空襲の激化等戦局の急展開に伴い、一般民心は戦況の劣勢、戦局に対する不安感より著しく悲観的、敗戦的感情を濃化しつつあり、・・・而も、亦従来より国民感情の底流に存したる厭戦、反戦的気運は漸次表面化し、自暴自棄的、厭戦、反戦的言動乃至は落書投書等の散見、又は敗戦和平の台頭をみつつあり。」
またここでは、折れ線グラフで1941年12月から1945年6月までの、
・「勝利についての疑念の拡大」
・「日本は勝てないとの確信の増加」
というものも、紹介してくれました。いずれも敗戦に近づくにつれ、急速に拡大・増加していることが分かりました。
さらに、<文教当局による学生・生徒の「思想状況調査」>として、1941~1942年までの、埼玉や茨城、佐賀の調査項目や結果を紹介してくれました。
そのうち、日中戦争4年後の1941年7月の埼玉のものでは、
以下のような8択問題(一つを選ぶ)がありました。
 1、段々冷静になり、吾々は自分の銃後の務めを全うしなければならぬと考えるように  なった。
 2、国の前途を憂えるようになり、一生懸命国家に尽くさねばと思うようになった。
 3、初め皇軍の連勝に血湧き肉躍る思いがしたが、段々別に感興も湧かなくなった。
 4、新体制に協力し、大いに頑張らねばならぬと思う。
 5、初め有頂天になって喜んだが、段々元気がなくなり、不安になって来た。
 6、早く事変が済んで、又前のような自由な時代が早く来ればいいと思う。
 7、此の際吾々の生活を切詰めて、一層国防を強化しなけねばならぬと考えるに至っ   た。
 8、段々吾々の生活が困難になって来て苦しいと思うようになってきた。
 (奇数項目は戦争に積極的、偶数項目は戦争に消極的な選択肢となっています。)
さらに、「戦意」の推移として、
 1931年9月18日(満州事変)
 1937年7月7日(日中全面戦争)
  1941年12月8日(対米開戦)
 1945年8月15日(敗戦)
の間の推移がやはり折れ線グラフで示されていましたが、いずれも開戦当時に一番急高騰し、その後は低調・低落傾向になるパターンが繰り返されていることが分かりました。
そして、とくに対米開戦時は99%にも上るが、サイパン失陥(1944年6月)後急加速に低下、8月15日は25%程度になっていることが分かりました。

3. 荻野さんはその後、レジュメの
「一、『思想統制』から『教学錬成』へ」に戻り、1950年に南原繁らの出した教育刷新審議会『教育改革の現状と問題』「序論」から以下のような部分を紹介しました。

少し長くなりますが、まとまっていますので紹介します。
ーー「一貫してわが国民教育の大本」であった「教育勅語」の「基調をなすものは、皇室を中心とする日本国体観と、これに基づく忠君愛国の国民の養成で在った」
「この教育方針は、満州事変を経て、日華事変に入るに及んで、更に極端化され、戦争体制に即応せしめるために、1937年(・・)に設置された教育審議会の決議による、いわゆる「教学刷新」において、頂点に達した感がある。これは、一に「皇国の道」を教育の基本とし、「皇国民の錬成」を目標とするということであった。
「小学校」の名称を改めて「国民学校」とし、あるいは文部省に「思想局」や「国民精神文化研究所」を設置したのも、この時であった。
それは、学校教育についてのみではなく、一般の社会教育についても同様であって、わが国の教育は、まったく、極端な国家主義と軍国主義的色彩に塗りつぶされるに至った。」
そして、1890年の「教育勅語」制定から1944年の文政研究会の『文教維新の綱領』刊行まで年代を追って詳しく紹介してくれました。
最後の『文教維新の綱領』の「総論:皇国の道に則る錬成」には、ついに、次のようなことが書かれるに至りました。
ーー「時には児童の能力や心理を無視しても或いはその個人的納得如何を無視しても日本人錬成のための厳しい修練が施されねばならぬ。」「実に家こそが国民錬成の根本的場であって、この場を外にしては錬成教育は根本の地盤を欠くものと言わねばならない。」
 もはや学校は、「児童の能力や心理」を無視した「日本人錬成」の場に代えられてしまったのです。荻野さんは「教育は破壊された」と述べました。

4. 次に、レジュメの「ニ、戦後教育への連続と断絶」という事について説明されました
敗戦直後の太田耕造文相は、敗戦は「皇国教学ノ神髄ヲ発揚スルニ未(いま)ダシキモノ有リニ由ル」などと述べていること、
 9月15日の前田多門文相の「新日本建設ノ教育方針」では「戦争終結ニ関スル大詔ノ御主旨ヲ奉体」し「益々国体ノ護持ニ務ムル」ことなどを述べていること、
そこで、10月22日に、GHQの教育指令が出されたこと、
しかし文部省のサボタージュや「教育勅語」への固執が続いていたこと、そうした中で教育刷新委員会の嫌疑を経て、ようやく1947年に「教育基本法」が成立したこと、
しかし、同時に新たな教育統制が、学生運動や教職員組合の抑圧を基軸に始まったこと、
同時に旧教学局官僚の延命と復活が行われ、彼らの中には次官にまでなったものもいること、も紹介されました。
つまり、戦後も戦前の体質を持った官僚たちがそのまま文部省に居座ることになり、そこには連続性があり、その文部省が戦後の「民主教育」を絶えず破壊し続け、2006年には「愛国心」を導入した改悪教育基本法を制定し、その後の動きでも明らかなように、もはや明らかに、「国家主義教育」と呼ぶにふさわしいところまで来たということでしょう。
荻野さんは最後に、小林多喜二に関するいくつかの言葉を紹介してくれました。その中には次のようなものもありました。
「俺たちの運動は皆今始められたばかりさ、何代がかりの運動だなァ」(「東倶知安行(ひがしくちゃんこう)」(1930年)の中の鈴木(「ひげの(鈴木)源重)のことば)
「あれから、89年。時代は一回りして、私たちも同じような時代を歩んでいるようです。
しかし、歴史の歯車は一時逆転する時はあってもらせん状に前進していきます。それは人類の生産力が基本的には絶えず前進しているからです。逆転して封建時代に戻るようなことはないのです。

約1時間の講演後、質疑がありました。