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2019年2月11日月曜日

2019.2.9 総決起集会(都教委包囲ネット主催)の報告 その一

2月9日(土)、小雪のちらつく中、「今こそ、教育の国家主義に対抗する」をテーマに、
「2・9総決起集会」(主催:都教委包囲首都圏ネット)が開かれ、90名が参加しました。




















講演:荻野富士夫さん(元小樽商科大学教授)の<戦前の教育統制から戦後の教育統制へ
 ~連続・継承と断絶~>について


講演では、多くの事例を紹介されながら、戦前から戦後へ続く教育統制や人々の認識の変遷について語ってくれました。
1. 最初に、この間の安倍政権による教育の反動化に触れつつ、それ以前の小泉内閣時の中山文科相の、「国家主義教育」につながる言葉を紹介してくれました。
ーー「先の大戦の敗北のショックが大きかったことと、戦後のマルキシズム、共産主義の影響で、日本の戦前は非常に悪かったという歴史観がはびこった。・・・戦後、国民をいじめるのが国家だといわんばかりの風潮もあった。
だが、皆国に守られているのですよね。自分のことだけでなく、国、人のために貢献できる人になることを目標にして生きて行くことが大事だ、と教えて行くべきではないかな。」(「朝日」2005・4・24)」
さらにそのあとの大河内一男氏や和田洋一氏の、当時の状況についての言葉を紹介してくれました。和田氏(灰色のユーモア―私の昭和史ノォト)は次のように述べていました。
ーー「(1930年代後半)私の実感としては、底知れぬ深い谷間へずるずると滑り落ちてゆく時代、途中でふみとどまろうとしても、足もとがくずれてゆく、はいあがるというようなことはとてもできない、一人一人がもがいても歎いても、結局はみんながずるずるとすべり落ちてゆく、そして事実地獄まですべり落ちていった、そういう時代、破局への一方的傾斜の時代、奈落の底への地すべりの時代だったという気がする。」
そして、北星大学・植村バッシングが、1930年代後半の思想統制が重なる、現在に近いものであると述べられました。

2. その後、レジュメを飛んで、
「三、日本人は、なぜあの侵略戦争に無謀にも突っ込んでいったのか」と言う部分に入り、当時の「戦意」について話をされました。
とくに太平洋戦争緒戦の頃は、民間からチョウチン行列や神社参拝なども行われ「99%以上の戦争支持・協力者」がいたという。
しかし、戦争が長引くにつれ、「戦意」は瓦解し始め、終戦の頃はかない低くなったことがグラフで示された。
また、1945年4月の「特高警察」の以下のような観測も紹介してくれました。
ーー「最近に於ける敵の比島及び硫黄島、沖縄等に対する侵寇並に本土空襲の激化等戦局の急展開に伴い、一般民心は戦況の劣勢、戦局に対する不安感より著しく悲観的、敗戦的感情を濃化しつつあり、・・・而も、亦従来より国民感情の底流に存したる厭戦、反戦的気運は漸次表面化し、自暴自棄的、厭戦、反戦的言動乃至は落書投書等の散見、又は敗戦和平の台頭をみつつあり。」
またここでは、折れ線グラフで1941年12月から1945年6月までの、
・「勝利についての疑念の拡大」
・「日本は勝てないとの確信の増加」
というものも、紹介してくれました。いずれも敗戦に近づくにつれ、急速に拡大・増加していることが分かりました。
さらに、<文教当局による学生・生徒の「思想状況調査」>として、1941~1942年までの、埼玉や茨城、佐賀の調査項目や結果を紹介してくれました。
そのうち、日中戦争4年後の1941年7月の埼玉のものでは、
以下のような8択問題(一つを選ぶ)がありました。
 1、段々冷静になり、吾々は自分の銃後の務めを全うしなければならぬと考えるように  なった。
 2、国の前途を憂えるようになり、一生懸命国家に尽くさねばと思うようになった。
 3、初め皇軍の連勝に血湧き肉躍る思いがしたが、段々別に感興も湧かなくなった。
 4、新体制に協力し、大いに頑張らねばならぬと思う。
 5、初め有頂天になって喜んだが、段々元気がなくなり、不安になって来た。
 6、早く事変が済んで、又前のような自由な時代が早く来ればいいと思う。
 7、此の際吾々の生活を切詰めて、一層国防を強化しなけねばならぬと考えるに至っ   た。
 8、段々吾々の生活が困難になって来て苦しいと思うようになってきた。
 (奇数項目は戦争に積極的、偶数項目は戦争に消極的な選択肢となっています。)
さらに、「戦意」の推移として、
 1931年9月18日(満州事変)
 1937年7月7日(日中全面戦争)
  1941年12月8日(対米開戦)
 1945年8月15日(敗戦)
の間の推移がやはり折れ線グラフで示されていましたが、いずれも開戦当時に一番急高騰し、その後は低調・低落傾向になるパターンが繰り返されていることが分かりました。
そして、とくに対米開戦時は99%にも上るが、サイパン失陥(1944年6月)後急加速に低下、8月15日は25%程度になっていることが分かりました。

3. 荻野さんはその後、レジュメの
「一、『思想統制』から『教学錬成』へ」に戻り、1950年に南原繁らの出した教育刷新審議会『教育改革の現状と問題』「序論」から以下のような部分を紹介しました。

少し長くなりますが、まとまっていますので紹介します。
ーー「一貫してわが国民教育の大本」であった「教育勅語」の「基調をなすものは、皇室を中心とする日本国体観と、これに基づく忠君愛国の国民の養成で在った」
「この教育方針は、満州事変を経て、日華事変に入るに及んで、更に極端化され、戦争体制に即応せしめるために、1937年(・・)に設置された教育審議会の決議による、いわゆる「教学刷新」において、頂点に達した感がある。これは、一に「皇国の道」を教育の基本とし、「皇国民の錬成」を目標とするということであった。
「小学校」の名称を改めて「国民学校」とし、あるいは文部省に「思想局」や「国民精神文化研究所」を設置したのも、この時であった。
それは、学校教育についてのみではなく、一般の社会教育についても同様であって、わが国の教育は、まったく、極端な国家主義と軍国主義的色彩に塗りつぶされるに至った。」
そして、1890年の「教育勅語」制定から1944年の文政研究会の『文教維新の綱領』刊行まで年代を追って詳しく紹介してくれました。
最後の『文教維新の綱領』の「総論:皇国の道に則る錬成」には、ついに、次のようなことが書かれるに至りました。
ーー「時には児童の能力や心理を無視しても或いはその個人的納得如何を無視しても日本人錬成のための厳しい修練が施されねばならぬ。」「実に家こそが国民錬成の根本的場であって、この場を外にしては錬成教育は根本の地盤を欠くものと言わねばならない。」
 もはや学校は、「児童の能力や心理」を無視した「日本人錬成」の場に代えられてしまったのです。荻野さんは「教育は破壊された」と述べました。

4. 次に、レジュメの「ニ、戦後教育への連続と断絶」という事について説明されました
敗戦直後の太田耕造文相は、敗戦は「皇国教学ノ神髄ヲ発揚スルニ未(いま)ダシキモノ有リニ由ル」などと述べていること、
 9月15日の前田多門文相の「新日本建設ノ教育方針」では「戦争終結ニ関スル大詔ノ御主旨ヲ奉体」し「益々国体ノ護持ニ務ムル」ことなどを述べていること、
そこで、10月22日に、GHQの教育指令が出されたこと、
しかし文部省のサボタージュや「教育勅語」への固執が続いていたこと、そうした中で教育刷新委員会の嫌疑を経て、ようやく1947年に「教育基本法」が成立したこと、
しかし、同時に新たな教育統制が、学生運動や教職員組合の抑圧を基軸に始まったこと、
同時に旧教学局官僚の延命と復活が行われ、彼らの中には次官にまでなったものもいること、も紹介されました。
つまり、戦後も戦前の体質を持った官僚たちがそのまま文部省に居座ることになり、そこには連続性があり、その文部省が戦後の「民主教育」を絶えず破壊し続け、2006年には「愛国心」を導入した改悪教育基本法を制定し、その後の動きでも明らかなように、もはや明らかに、「国家主義教育」と呼ぶにふさわしいところまで来たということでしょう。
荻野さんは最後に、小林多喜二に関するいくつかの言葉を紹介してくれました。その中には次のようなものもありました。
「俺たちの運動は皆今始められたばかりさ、何代がかりの運動だなァ」(「東倶知安行(ひがしくちゃんこう)」(1930年)の中の鈴木(「ひげの(鈴木)源重)のことば)
「あれから、89年。時代は一回りして、私たちも同じような時代を歩んでいるようです。
しかし、歴史の歯車は一時逆転する時はあってもらせん状に前進していきます。それは人類の生産力が基本的には絶えず前進しているからです。逆転して封建時代に戻るようなことはないのです。

約1時間の講演後、質疑がありました。