2月5日(日)、第13回目になる『2・5総決起集会』(主催:都教委包囲首都圏ネットワーク)が、東京しごとセンターで開かれ、120名が集いました。
集会では、主催者挨拶の後、<現場からの報告><様々な闘いの現場から>が行われ、その後に<北村小夜さん(91歳)>の講演「改めていま『教室から戦争がはじまる』」が行われましたが、最初に北村さんの講演から紹介します。
北村さんの講演
北村さんは2月5日の朝まで新潟での日教組教研に参加され、駆け足で東京に戻られて講演してくださいました。そして冒頭、次のようなことを述べました。
「日教組教研に右翼が来ていない。1台だけ見たが3台くらい来たらしい。右翼も相手にしなくなった。参加者も少なかった。」
「改めていま『教室から戦争がはじまる』」 北村小夜さん
「今は、私が育った時代と同じような状況になっている」として、当時の資料(これは大変参考になるものでした)を参考に多くの事を語ってくれました。
○まず、「昭和18(1943)年3月31日発行の『写真週報』(情報局編集)に大きく掲げられた<時の立札>というものを紹介しました。
そして次のように述べました。
★この年は学制が変えられ5年生が4年生になった。早く兵隊に行かせるためだった。自 分が女学校の時代、勉強をしていなかった。工場で兵隊の服の修理をやらされていた。
当時まだ大正デモクラシーの雰囲気が残っており、親や教師は疑問や批判を持っていた。
しかし、子どもたちはそうした親や教師をまどろしく感じた。
当時、もう少し大人がしっかりと子どもたちに教えてくれれば良かった。今も同じだ、 子どもたちは小学生の時から「日の丸・君が代」で入学式卒業式をしており、それが当 たり前になっている。(たしかに、それを批判する大人を批判したりします。:渡部注)
★その後、2016年の言葉として、イギリスのオックスフォード英語辞書が「Postーtruth (ポスト真実」を選んだことを紹介され、同時に二つの短歌(科学者・歌人の永田和宏 氏作)も紹介されました。
<不時着と言い替えられて海さむし言葉の危機が時代の危機だ>
<Postーtruth他所事ならず無表情に衝突と言ひて去りゆく女人>
そうして、次のように述べられました。
現代の「嘘がまかり通る時代」を糾すには事実を示し続けるしかありません。
リテラシー(読み書き能力)をつかさどる教育の役割がますます重視されます。
★その後、北村さんは<軍国少女のへの道>と題して以下のような話をされました。
まず、<軍国少女への道 ~その1>」です。
・日本の所に銃剣に「正義」の旗を 掲げる日本兵
・ロシアの所に銃剣を持つロシア兵 ・中国の所に青竜刀を持つ中国兵 ・アメリカの所にピストルを持つアメリカ兵
北村さん
「戦争には「嘘と監視」がつきものです。真実を教えてくれる人がいなければ子どもは従っていきます。・・これ(上の絵)を見た幼い私は、なぜだかわかりませんが、正義の 日本が狙われていると理解しました。
★第一次上海事件で爆弾三勇士
北村さん
「小学校就学直前の1932年、第一次上海事件で爆弾三勇士(彼女の故郷の久留米市の工兵隊から出征)が戦死し、その功を讃える旗行列(回覧板で回る)がありましたが、家の人は参加するつもりはありませんでした。しかし当日に町内の世話役のおじさんが束にした「日の丸」の小旗を抱え回ってきたとき「お嬢さんだけでのいいですよ」と言って旗を持たせ、おじさんについて旗行列に参加した。おじさんは彼女を高く抱えて旗の波を見せてくれた」
「上から見る旗の波は美しく私の心がそそられます。すっかり日の丸に魅せられてしまいました。軍国少女の始まりです。
年始に、ふと宮中参賀のニュースを見て、この大きな旗の波、上からはどう見えるのだろうと考えます。
「1925年生まれですが、その年に「治安維持法」ができ、すでに物が言えにくくなっており、子どもが何か疑問をもったりすると、大人は<シー>と指をたてた。今も同じことが起こりつつある。大人の役割は大事だ。
<心と体が国に奪われる 軍国少女への道 ~その2(心)>
ここは資料から以下は抜粋で紹介します。
★「戦争をするためには国民の逆らわない心と丈夫な体が必要です。私が小学校で学んだのは1932年ー38年で日本が戦争に向かう時でいたが、大正デモクラシーの名残もありました。教えてくれた先生たちもすべてが戦争推進派ではありませんでしたが、子どもたちは日に日に軍国少年少女に育っていきました。・・
どこの学校にも奉安殿が出来、御真影・教育勅語への敬意の表明を厳しくしつけられました。修身の時間は天皇の赤子として生まれたことのありがたさを教えられました。・・
綴り方の時間には満州の兵隊さんへ慰問文を書き、図工では戦車や飛行機を描いたり模型を作ったりしました。・・
・・四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)には、奉安殿から運ばれた御真影の前で君が代を歌い厳かに読まれる教育勅語をきき講和があり式歌を歌いました。~いま都教委が強制している卒業式は御真影を日の丸に代えてこの形を模しています。
★ひたすら皇民教育を受けるうちに、戦争は天皇の宣戦布告に始まり講和条約締結で終わること、戦争には日本が勝ち領土が広まることと覚えました。そして「天皇陛下の為に命を投げ出すこと」こそ最高の善だと思うようになりました。
それでも子どもです。忠孝一致と言われても、楽はしたいし、欲しい物は欲しい、親孝行どころか親を困らせることもたびたびで、忠義などできそうにありません。深入りしてはいけないことのようですが、「現人神」という天皇は人間ではないのかなどなど、折々に悩みました。(先生に質問)
「修身の本に書いてあることはみんな本当のことですか?」と聞きました。先生は驚いたようで「本当に決まっています。そんなこと考えて勉強していたの?がっかりした」と言われました。私は即座に「ウサギとカメもですか?」と聞きました。
担任先生が黙ると隣の組の若い先生が「みんなが親孝行で、みんなが忠臣だったら教科書には載らないよ」「親孝行してもらいたいから、忠臣になってもらいたいからだよ」と言ってくれました。
途端に長年の疑問が解けたような気がしました。・・でも重ねて「誰が?」と聞くと「それは自分で考えなさい」と言いました。今考えるとよく言ってくれたと思います。でももう一歩踏み込んでくれていたら私の生き方は違っていただろうとも考えます。
<軍国少女への道 ~その3(体)>から、
★戦争準備は国民の体力づくりからです。1928年昭和天皇の大典の記念行事としてラジオ体操がはじまり、1930年には「日本一健康優良児」表彰制度(1976年まで)がスタートします。今は学校表彰だけですが、全国の小学校6年生から男女1名ずつ選び、その中から県知事が各1名健代表として選び、その中から日本一を決めます。成績優秀で家庭も健全でなければいけません。
1938年には厚生省が出来ます。同年にできた国家総動員法はいざという時国家は物的人的資源を自由に調達できるというものですが、厚生省はその人的資源を担当しました。
1939年には「産めよ増やせよ国のため」という標語が出来ました。そして1940年の「国民体力法」です。
1条に「政府は国民の体力の向上を図るため、国民の体力を管理する」とあるように 一人一人の国民の意思に関係なくその体力を検査してその向上にかかる必要な措置をするというものです。健康増進法は十分にその機能を持っています。
私が小学校を終え県立高等女学校を受験したのは1938年でしたが、突如入試制度が変わり口頭試問と体力検査で筆記試験がなくなりました。
入学してもスカートを穿くことは少なく普段はセーラーの上着にもんぺ(錬成服と呼んでいました)を穿いていました。それを自分で勇ましく感じていました。(「得意になる」とも話されました)・・体育には薙刀(なぎなた)がありました。袴を着けて薙刀を持つともうそれだけで献身奉公・攻撃精神が心身にみなぎるように感じました。
★戦後、GHQの指示によって軍国主義的教育が払拭され、武道の授業は禁止されました。
それが復活するのは1949年の中華人民共和国の成立、1950年の朝鮮戦争等を契機にアメリカの対日戦略の変更によるもので、1950に柔道・1951に弓道、1953に剣道と順次正式に学校体育の教材「格技」として再登場しました。さらに、卒業式等で国旗の掲揚と国歌斉唱の指導を指示し国家主義的な道徳教育の強化を図る1989年改訂学習指導要領で中・高の保健体育の「格技」を「武道」に改めました。
最後に北村さんは、サトウ・八チローの詩を紹介し、次のように述べました。
国策・国威発揚にはいつも子どもが狙われます。学校教育は勿論ですが、あらゆる手段で。少年倶楽部は特集を組みました。たくさんの写真を載せ奮い立たせるような文章を添えられていました。
入場式の場面には「秩父宮殿下から賜った大日章旗を先頭にひるがえしたわが代表選手・役員171名が、威風堂々入場してくる光景をご覧ください。「皆さん、この写真をじっと見つめていると、瞼が熱くなってきますね。」といった具合です。ジーンとこないと日本人じゃないみいな書き方です。それに輪をかけるのが先に読んだサトウ・ハチローです。
詩人 サトウ・ハチローの翼賛ぶり
1932年7月、ロサンゼルスオリンピック陸上三段跳びの場面の放送を聞きながら (『 』内は現地からのアナウンス)
「『一等南部忠平君(日本) 記録は15メートル72、オリンピック並びに世界新記録。二等スヴェン ソン・・・・』
もうどうでもいい、スヴェンソンも何もあるものか、南部が勝ったのだ、勝ったのだ。
『いま、するするとマスト高く日章旗があがりました』
バンザイ、僕だって唄うぞ君が代を、君が代を。
『つづいてスエーデンの旗、次に又日本の旗、南部、大島両君は、直立不動ビクトリー・マストの日章旗を仰いでいます』
僕は目に浮かぶ、同胞の歓喜のさまが、歓呼の声が。優勝した南部は、何百というカメラにかこまれた。トーキー会社は南部をカメラの前に立たした。
『どうか一言おっしゃって下さい』
南部は何と言ったか。
『只今、南部忠平優勝いたしました』
この言葉をよく聞け諸君、この言葉は南部が、いかに国を愛しているか、いかに陛下のよき民であるかをはっきりとしめすものである。
『只今、南部忠平が優勝いたしました』
誰に報告しているのであろうか。天皇陛下へである。そうして、日本国民へである。そうして、その後に大きな声で『日本万歳』と言ったそうである。
南部!!! 僕の南部、日本の南部、世界の南部、僕は君を愛する。
僕は君の友情と優勝に感謝する。僕は日本の詩人として、
君の美しい友情と優勝を、讃美歌となすつとめを持つた。」
1932、少年倶楽部10月号、南部の優勝を聞く サトウ・ハチロー
北村さんは
「この手は今も子どもたちに向かってしきりに使われています。すでに届いています。
そして次のように結ばれました。
「子どもたちはすでに前に進んでいます。大人が嘘の何倍も正しいことを言わなければならない。」
以上が91歳の北村さんが、力を入れてまとめられた貴重な資料と、大変教訓深い話の概略でした。
北村さん本当にありがとうございました。