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2015年6月24日水曜日

6/16 下村文部大臣 国立大学学長会議で卒・入学式での。「君が代」の斉唱、「日の丸」の掲揚を要請

6月16日(火)、下村博文・文科相は、国立大学86校の学長を集めた会議で、卒・入学式での「君が代」斉唱と「日の丸」掲揚を要請した。
(さらに、8日に通知した文系学部の廃止などの組織改編を進める方針も説明した。)

彼は、「各大学の自主判断」としながらも「長年の慣行により国民の間に定着していることや、(1999年8月に)国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」と述べた。
しかし、「長年の慣行により国民の間に定着している」というのは、全くの嘘である。
歴代の自民党政権と文部省は、スポーツの場やマスコミを通じ、そしてとりわけ学校教育を通じて、意識的に「日の丸・君が代」を押し付けてきたのである。

文部省は戦後(1946年)、「国民学校令施行規則」を改正し、式日の行事中、「君が代」斉唱、御真影奉拝、教育勅語奉読等に関する規定を削除した。
にも関わらず、朝鮮戦争か始まった1950年には、文部省は祝日に「日の丸・君が代」を進める通達を出した。
その後、1958年には、小・中学校学習指導要領を改訂し、勝手に「日の丸」を「国旗」とし、「国旗を掲揚し、君が代をせい唱させることが望ましい」とした。
また、1977年の小・中学校学習指導要領を改訂では、「君が代」を「国歌」と記述するようになった。
そうして、1985年には、「天皇在位60年記念」行事キャンペーンと前後し、自民党を中心に地方議会で「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱決議が相次ぎ、文部省初等中等教育局長は、都道府県教育委員会などに卒・入学式での「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱の徹底を通知した。
1987年には、臨時教育審議会最終答申で、「国旗・国歌」への理解と尊重を強調した。
それを受け、1988年には教育課程審議会が、「国旗・国歌」の義務化を答申、1989年には文部省が学習指導要領を告示し、移行措置で1990年度からの「国旗・国歌」の強制を打ち出したのである。

これらの動きに対し、全国各地の教育現場で「日の丸・君が代」の強制は「再び教え子を戦場に送る」ことにつながるとして心的な教職員・生徒・父母・市民たちによって一貫して闘われてきた。
例えば、私が勤務していた千葉県の高校では、1994年度より高校の「新学習指導要領」で卒・入学式での「日の丸・君が代」の義務化がうたわれたため、それを前後し、教職員だけではなく、小金・国府台・薬園台・船橋・東葛などの高校生・父母らも強制反対の闘いに立ち上がった。
これらの闘いは、千葉高教組のパンフ作成委員会編集の、『侵入禁止~「日の丸・君が代」反対闘争の発展のために』(1994年11月、B5版164ページ)というパンフレットにまとめられている。

また、「平和教育」に力を入れていた広島県でも、強制反対闘争が行われ、その中で、強制する教育委員会と反対する教職員の板挟みになり、世羅高校の校長が1999年2月に自殺した。明らかに強制が自殺を招いたのである。それでも文部省は更なる強制を狙い、
その8月には「日の丸・君が代」を法制化した。

しかし、その際政府は、単に「日の丸」を「国旗」とし、「君が代」を「国歌」としただけであり、「強制するものではない」「これまでの扱いと変わるわけではない」などと繰り返し述べていた。
にも関わらず、学校現場への強制はさらに進み、2003年10月には、都教委は、石原慎太郎都知事(当時)の意向を受けて、「10・23通達」を出し、「不起立」の教職員は処分するとし、卒入学式での教職員の役割分担から式場作成方法、教職員の座席配置まで点検し、
都教委の職員を監視に送り込み、国旗」掲揚、「国歌」斉唱を行わせることになったのである。
そのため、これまで東京では延べ474名もの教職員が戒告から停職6っヶ月までの処分をされている。
さらに思想転向を迫る「再発防止研修」も受けさせられている。(田中聡史さんは昨年度18回も)
また、橋下大阪市長に至っては不起立3回で免職というとんでもない憲法違反の「条例」まで作っている。
これでも、文科大臣が「長年の慣行により国民の間に定着している」などと白々しく言うのは、盗人猛々しいとしか言いようがない。

そして、今度は、国立大学にも要請してきた。最初は、「各大学の自主判断」などと言いながら導入を図り、いずれ、強制に転じるのは目に見えている。
小中高校への「日の丸・君が代」の強制の歴史を振り返ると、それは教科書検定の強化や管理強化と並行しており、国家主義教育」確立のための「踏み絵」であったことがよくわかる。
当然、現在では小中高校での「学問や教育の自由」はほとんどなくなっている。全ては、国家が要請する「学問」であり「教育」というものになっている。
したがって、今回の文科省の国立大学への「日の丸・君が代」要請は、明らかに、全面的な「国家主義教育」の確立であり、これが貫徹すれば、「学問」や「教育」の自由は一切踏みにじられることになるだろう。
して、戦前同様、そこからはみ出た教職員に対する排除につながるであろう。
その先にあるのは、息苦しい学校、息苦しい社会であり、戦争とファシズムの時代である。

大学の先生方、私たちと共に、「日の丸・君が代」の強制に反対しましょう。
ちなみに、今回文科省が打ち出している、文系学部の廃止>というのは、まるでロボットのような人間を大量生産することにつながると思います。
人間を大切にしない見識のないエリートが跋扈する世の中になると思います。
私たちはこのような社会の到来を許してはなりません。
「学問は学者の自由研究に一任して、政府の力を以って干渉すべきものではない。妄りに干渉すれば、結果は必ず其の発達を妨げるに至るものである。
漢武の挙(前漢の武帝が董仲舒の意見を入れて儒教を官学としたこと)は、已に学問を儒教という範囲に狭めてしまった。」(狩野直喜著『中国哲学史』より)